スパイ 探偵 忍者 ゾルゲ事件
ゾルゲ事件
警視庁が1941年10月に摘発した国際スパイ事件。ドイツ紙特派員として来日した旧ソ連のスパイ、リヒャルト・ゾルゲが、尾崎秀実(おざき・ほつみ)らから入手した日本の軍事、経済情勢に関する機密をソ連に報告した。治安維持法違反などの容疑で35人が逮捕され、44年にゾルゲと尾崎の死刑が執行された。宮城与徳は43年、拘置所で病死。
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スパイ ゾルゲ
ソビエト連邦のスパイ。1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)にかけてゾルゲ諜報団を組織して日本で諜報活動を行い、ドイツと日本の対ソ参戦の可能性などの調査に従事し、ゾルゲ事件の首謀者として日本を震撼させた。
1933年9月6日に、日本やドイツの動きを探るために『フランクフルター・ツァイトゥング』の東京特派員かつナチス党員として日本に赴き、横浜に居を構える。
当時日本におけるドイツ人社会で、日本通かつナチス党員として知られるようになっていたゾルゲは、駐日ドイツ大使館付陸軍武官補から駐日ドイツ特命全権大使に出世したオイゲン・オットの信頼を勝ち取り、第二次世界大戦の開戦前には最終的に大使の私的顧問の地位を得た。彼は来日前にオットの戦友である『テークリッヒェ・ルントシャウ』紙論説委員であるツェラーの紹介状を入手していた上、政治的逃避のため日本に派遣されることになった当時のオット中佐は日本に関する知識をほとんど持っておらず、そのため日本の政治などに関して豊富な知識を持ったゾルゲとの出会いを喜んだ。
スパイ
1936年の二・二六事件の際にはドイツ大使館内にいたことが、大使館と戒厳司令部の連絡将校として館内に出入りしていた馬奈木敬信によって戦後証言されている[2]。ゾルゲはこの事件を日本の対外政策と内部構成を理解する好機ととらえた。オットや当時のディルクセン大使にも協力を求めて情報収集に努め、事件を分析した報告書をドイツ外務省や所属先である赤軍第四本部、ドイツの雑誌に送っている(ドイツ外務省と雑誌では匿名)。これを契機に大使館側のゾルゲに対する信頼は向上した。なおドイツの雑誌に掲載された論文は、カール・ラデックがゾルゲの筆とは知らずに評価してソ連の新聞に転載した。ゾルゲはこれに抗議し、以後はこうした事態は避けられた。
日本人共産党員とは接触を避け、ロシア語は口にしないなど行動に注意を払いつつ待っていたゾルゲは、駐日ドイツ大使館付ドイツ軍武官やゲシュタポ将校の信頼も得ることになり、やがてオットが駐日ドイツ大使となると、ゾルゲも1939年頃には公文書を自由に見ることが出来る立場となっていた。ヨーロッパで戦争が始まるとオットはゾルゲを大使館情報官に任命し、ゾルゲはドイツ大使館の公的な立場を手に入れた。ゾルゲはドイツ大使館と彼の諜報網の両方から日本の戦争継続能力、軍事計画などを入手できる立場となり、1940年9月27日の日独伊三国軍事同盟後にはより多くの情報が得られるようになった。
ゾルゲは、その肩書ゆえに諜報入手に大切な支配階級との接触の機会を持てず、スパイとしては物足りなかったアメリカ共産党員の洋画家宮城与徳に代えて、支配階級との接触の機会を持つ男を必要とした。そこでゾルゲが選んだのが上海時代に知り合い近衛内閣のブレーントラストのひとりとなっていた尾崎秀実である。尾崎を仲間にして日本政府に関する情報が入手できるようになった。こうしてアヴァス通信社のユーゴスラビア人特派員のブランコ・ド・ヴーケリッチ、宮城、ドイツ人無線技士のマックス・クラウゼンとその妻アンナらを中心メンバーとするスパイ網を日本国内に構築し、スパイ活動を進めた。ゾルゲが報告した日本の情報は武器弾薬、航空機、輸送船などのための工場設備や生産量、鉄鋼の生産量、石油の備蓄量などに関する最新の正確な数字であった。
ナチス外相がソ連スパイのゾルゲに送った書簡、日本で見つかる
ゾルゲをめぐっては、ナチスが独ソ不可侵条約を破棄してロシア西部に進軍する計画を立てていることを突き止めたことで知られている。在日ドイツ大使館の報道官、記者として太平洋戦争前の東京で情報収集していたゾルゲは、日本とナチスがともにソ連への侵攻を計画していることをモスクワに報告した。
今回見つかったのは、1938~1945年までナチス・ドイツの外相だったヨアヒム・フォン・リッベントロップ(Joachim von Ribbentrop)が、ゾルゲの43歳の誕生日に送った1938年の書簡で、この中で同外相は在日大使館におけるゾルゲの「突出した貢献」を称賛している。
歴史学者らは、ゾルゲがナチスに非常に信頼されていたことを示す──そしてソ連にとって極めて価値のあるスパイだったことを示す書簡だと評価している。
奥平氏によると、書簡は、ナチス・ドイツ関連資料を処分したいという人から入手したもので、親族の遺品だったとされる。遺品には、リッベントロップ外相のサイン入り写真も含まれていた。売却者は書簡がどういうものか知らなかったという。
書簡は競売に掛けられる予定だが、奥平氏は、リッベントロップ外相の秘書が執筆しているため、どちらかといえば通常の外交文書に近いものになることを注意した。
スパイ活動が発覚し、ゾルゲは当時の日本の当局によって逮捕され、1944年に死刑が執行された。当初、旧ソ連はゾルゲが自国のスパイであることを否定したが、独裁者ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)の死後、一転してこれを認めている。
尾崎秀実とゾルゲ
尾崎秀実は、多少国士的な漢詩人でありジャーナリストであった父とともに、幼少年期一八年を植民地台湾で送り、若いころから民族問題・中国問題を体験的に肌で接していたが、一高から東大に入学した直後、第一次共産党検挙事件と大震災後の白色テロ事件にあって社会問題の研究に志ざし、大学院に残って中国革命への関心を深めた。
大阪朝日新聞社に就職して社会部から支那部に移り、細川嘉六らと中国革命研究会をもったりしたあと、待望の上海支局詰となった。上海では魯迅をはじめ中国の進歩的な知識人たちと交際し中国の文化運動に参加し、在留邦人たちの「日支闘争同盟」などとも密接に結びついた。上海においてアグネス・スメドレーやゾルゲとのむすびつきもでき、社命で帰国したのち、本拠を日本に移したゾルゲと再会し、親密な関係に入った。
尾崎は当時すでにすぐれたジャーナリストであり、中国問題の専門家として言論界に重きをなし、また近衛内閣の有能なブレーンとして首相官邸内にデスクをもち、秘書官室や書記官長室に自由に出入りしえたし、政界上層部の動向に直接ふれることのできる地位にあった。
尾崎にたいする今日の評価はきわめて多様であるが、彼の英雄的ともいうべき努力の中心は戦争を避け社会主義を防衛しようとする必死の抵抗であった。彼はたしかに情報を収集する活動を意識的におこなったが、それも彼のことばによれば政治的な便宜のための手段の一つにすぎなかった。
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彼がゾルゲに提供したといわれる情報も、新聞社の特派員や在外公館の手に入れる秘密情報と大差ないものであり、むしろ彼は情報収集者であるまえに一個の独立した情報源であり、彼の政治判断や見通しによってゾルゲの活動に協力したのである。
彼がゾルゲと深い関係を結んだのも、彼独自の「東亜協同体」論も、日本民族の将来を思いなやんで求めた結果であった。将来ソ連や新中国と提携してゆく場合に予想される日本国内の変革について、彼は労働者階級を主体とする階級闘争によってではなく、もっぱら既成政治勢力内部の工作によって上からなしとげることができるし、またそうあってほしいと考えていたようにみえる。
なおこの事件に関連して、四二年六月に上海において「中国共産党諜報団事件」として中西功、西里竜夫ら一〇名(うち中国人三名)が検挙された。
スパイ養成法
工作員が受けた徹底訓練には、爆弾製造など典型的な内容のほか、○○の何百曲ものポップソングやダンスの習得も含まれていた。
社会に同化することを目的としたこうした戦略は、疑われるのを回避するのに必須と考えられている。最近出版した自伝の中で、自伝では、謎に包まれた工作機関の活動の一部が明らかにされている。
潜入し逮捕され、何年にもわたり尋問を受けた後、情報機関に加わった。
17歳の時に工作員訓練生に抜てきされ、工作員養成機関、政治軍事大学に入学。容姿や家柄、学校の成績、そしてなによりも、揺るぎない忠誠を考慮した審査で毎年選抜される200人のうちの一人だった。
厳選された訓練生は、大学キャンパスを離れることも、家族も含め、大学の外の人と連絡を取ることも許されなかった。家族に送る年賀状だけは例外だったが、差出人住所を書くのは禁じられていた。
大学では過酷な訓練の日々が続いた。武術や射撃、爆弾製造、壁登り、地質学、モールス信号、航海術──。訓練はすべて、必須のイデオロギーの授業と組み合わせられた。
がっちりした体型で穏やかな口調は、インタビューで、任務のため常に命を犠牲にする覚悟を持て、と教官から繰り返し叩き込まれたと話した。
工作員は身柄を拘束されそうになった場合、生け捕りにされ尋問を受けるよりは、青酸カリの入ったカプセルを飲んで自殺するべきとされた。
「死のことが常にわれわれの肩に重くのしかかっていた。20歳の青年には非常に重い負担だった」と振り返る。
卒業後は、潜入先の人間として通るよう訓練することに焦点が当てられた。拉致された人などの指導の下、訛りの習得や、資本主義国・韓国の社会的・政治的文化の理解に努めた。この「エネマイゼーション(敵との同化)」の過程で、訓練生は孤立した北朝鮮の外にある世界を初めて味わうことになった。
映画、雑誌、新聞、本を吸収し、ポップソングやダンス、芸能人やスポーツ選手の名前や経歴も暗記した。
教材からうかがい知る「米国の帝国主義の下で苦しむ貧しい操り人形たち」というプロパガンダとはかけ離れていたが、「私たちの忠誠心はそのようなことでは揺るがなかった。
私たちは金持ちの資本家たちが富を独り占めしていると教え込まれており、それを疑うことはなかった」と語る。
約10年間の訓練を経て、工作員を本国に呼び戻すのに協力することを任務として与えられた。
工作員の名は2年後の92年に報道された。数十人の親北左派が、80年代に工作員のスパイ活動に協力したとして逮捕されたのだ。一方の任務は成功し、本国に戻ると「共和国英雄」の称号を授与された。
2人組のチームとして再び潜入する。僧侶を装った工作員が、二重スパイとして情報機関と協力している疑いがあり、この工作員を必要であれば強制的に本国へ戻すことが任務だった。
警察に追い詰められ、銃撃戦の末、パートナーは射殺され、負傷して身柄を拘束された。
軍情報部によって拘束された4年間について詳細へのコメントは避け、「非常に困難」だったとだけ述べた。最終的に収監されず、忠誠心を捨てた情報機関の分析官として採用された。
寝返りに対し、そう寛大ではなかった。両親が自身の逮捕後に「排除された」ことを知った。これは収容所に送られたか、処刑されたかのいずれかを示す。「政府からしてみると、私は2度失敗した。任務での失敗と、逮捕される前に自殺しなかったことの両方でだ」と語った。
新たな人生をスタートさせは結婚して2人の息子を持ち、工作戦略に関する論文で博士号も取得した。
「私の人生はかつて劇的な出来事であふれていた。死が常に頭上にぶらさがっているような日々がずっと続いた。今は普通のこと、静かな生活がいかに有り難いかをと学んだ。このまま年老いて、死ぬことができたらいいのだが」
今もプライバシーは明かさず、正面から写真を撮られることも拒む。この自伝は、2人の息子が「いつか私の過去を理解できるように」との思いで書いたという。また、「鬱積(うっせき)した思いを晴らしたかったのと、あまり知られていないこの歴史の一片を記録に残したかった」とも付け加えた。
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